晴々 haruharu

今年の目標は「できる限り、健康になる」

「被災地・戦地に千羽鶴を送る問題」について、「入院中に受け取った側」のわたしの意見

先日、とある団体が、駐日ウクライナ大使館に千羽鶴を送るというニュースがTwitter上で議論になりました。
わたしも、この行動に対して、誤解を恐れずに、結構ハッキリ否定しました。

これは「紛争中のウクライナの大使館に送るから」ではなく、「見ず知らずの不特定多数に対して千羽鶴を送る行為」自体への否定です。



しかしながら、この「千羽鶴」というものは、入院経験があり、そのとき実際にもらった経験のある人からすると、割と嬉しかったりするものでもあって……。
実はわたしも嬉しかった側の人なんです。
千羽鶴を作り、送る文化」自体をまるごと否定することや、件の団体に対して直接抗議や批判をすることは、さすがに違うのでは……という意見もありますし、わたしもそう思います。

入院したお友達への千羽鶴であれば、送る人にとっても受け取る人にとっても、相手の顔が頭に浮かぶ具体的な関係性がある状況です。
そして、多くの場合、「たったひとつの千羽鶴」であるはずです。

しかしながら、被災地に届く千羽鶴というのは、多くが「見ず知らずの製作者たち」が「見ず知らずの被災者」に対して折ったものです。
また、「あそこには既に1個あるから、やめておきましょう」などという配慮はなく、「テレビで放映された避難所」等、なんらかの注目を集めた場所に、さまざまな団体から複数の千羽鶴が、雨後の筍のように大量に送り付けられるのです。



そもそも、「千羽鶴送り付け問題」は、東日本大震災の際に被災地から上がってきた声で表面化されました。


多くの千羽鶴は、支援物資に紛れて届き、物資の仕分け労働をする人々の手を塞いでしまいます。
これは食べ物だろうかと希望を抱いて開けた箱の中に、カラフルな折り鶴が連なってしこたま詰まっていたときの徒労感は、いかばかりかと思います。

今日食べるもの・いま着るものに困っている被災者からすれば、千羽鶴は「今はいいよ」と言われても仕方がないのではないでしょうか。

なぜ「見ず知らずの人」に鶴を折るのか


戦時中、戦地へ赴く息子のために、地域のご婦人が「千人針」というものを作りました。

千人針は、たくさんの女性がひと針ずつ縫って作る布のこと。
「戦禍を生き抜き、無事に帰還できますように」という願いが込められた、いわばお守りのようなものでした。

それを、ご近所のおばさまやおばあさまたちが縫うのです。もしかすると、戦地に赴く男性の、初恋の女の子も縫っているかもしれません。
具体的に顔が浮かぶ、近しい相手を想って、ひと針ひと針縫われるのです。


しかしながら、現在の千羽鶴は、テレビやネットで見た「被災者」や、「難病を患う○○ちゃん」「戦禍のウクライナのみなさん」のような、こちらが一方的に見知ったつもりになっている相手でしかない場合が大多数です。


そして、千羽鶴も千人針も、たくさんの人が願いを込めて作ることは共通ですが、特に千人針は、「戦時中の女性」が作るものである以上、戦地へは行けない「非当事者」が、戦地へ赴く「当事者」に対して作るものです。


当事者が「入院患者」であれば、その人に対して千羽鶴を折る人々は、医師や看護師などの医療従事者として具体的に治療を施せる人ではありませんし、当事者が「被災者」であれば、その人々に対して千羽鶴を折る人々は、現地に実際に足を運んで、がれきを片付けたり、潰れた屋根にブルーシートをかけられるような人ではありません

なぜなら、そういう人々は、千羽鶴など折らずとも、自分のできることをできる限り行うことで、「当事者」の役に立つことができるからです。


つまり、千羽鶴を折る人は、「当事者のために、何もできない人」が大多数なのではないでしょうか。



被災地の現状をテレビで見た。
難病の○○ちゃんをネットで知った。

私にも何かできないかと考えたけれど、お金もなければ力もない。
何もできないことが悲しい。
無力感。
やるせなさ。


そんな気持ちを「消化/昇華」するための行動が、「鶴を折ること」なのです。



祈りを込めて鶴を折る。折ってみればわかります。意外と手間がかかります。
多くの何もできない人にとって、その「手間」が必要なんです。
その手間こそが、非当事者の無力感を落ち着かせるものだからです。

つまりは、鶴を折ること自体、非当事者による、「当事者」のために何かをしている感を味わいたいという、精神的な代償行動なのです。


わたしがみずからのツイートで、「オナニー」と表現したのはこの部分です。
鶴を折ること自体は、素敵なことだと思います。「気持ちを癒す行為」だからです。でも、問題はそこから先です。


言い方はアレですが、千羽鶴を作る行為が「オナニー」であるならば、それを被災地などに送ることは、「見ず知らずの方に、『あなたをオカズにしました』と、使用済みのティッシュを1000個送りつけるような行動」ではないでしょうか。

被災者はあなたのオカズになるために被災者になったわけではないのです。
ウクライナの人々だってそうです。

やるせなさや無力感を手を動かすことで紛らわしたいのであれば、販売できる何かを作って、それを売り、売上を寄付することの方がよっぽど意味があって喜ばれるのではないか、とも思うのです。


さらに、今回の問題では、実際の送り先は大使館であるとはいえ、海外の特定の国や地域に宛てられたものである以上、千羽鶴」という文化自体が、海外の方から正しく受け止められるかどうかも不明です。
鶴が長寿を象徴するおめでたい生き物であるのは、あくまでも日本の文化で、海外では全く逆の意味を持つ、不吉な生き物である可能性も否定できないからです。


もしもあなたが、どこかの国の人々から、願いを込めた「千個のガイコツ」を送られたらどうでしょう。
その国の文化だと言われても、ちょっと気味が悪いな〜……と思ってしまうかもしれませんよね。ガイコツだったら1個でも嫌かな……。わたしは、ですけど。



千羽鶴を送る行動が、当事者にとって本当に必要であるのかを、お送りするご本人にお話して確認できない状況であれば、千羽鶴を作ること」はともかくとして、千羽鶴を送ること」はやめておいた方がいい、とわたしは思うのです。