晴々 haruharu

今年の目標は「できる限り、健康になる」

コロナ禍の人々に重なる「羆嵐」吉村昭 著

先日、なぜかTLに「北海道大学ヒグマ研究会・通称クマ研」の話題が出てきたことをきっかけに、今回この本を読みました。

わたし、三毛別は「みけべつ」だと思っていたんですが、「さんけべつ」なんですね。*1

今年、田舎ながらもそこそこ人口がある地元にクマが現れ、しかも我が家のかなり近所の畑を通り過ぎて行ったことを、ご近所さんが取材を受けているニュース映像を見て知り、さすがに我が家の近辺に出たクマはヒグマではないとは思いますが、震撼しました。*2

そのときのクマも行方知れずになってしまって、コロナ禍の不安もあいまって、クマ避けの鈴を買おうか真剣に迷うくらい心配した日々でした。


ATTENTION
この先の内容にはストーリーの重要部分を含みます。
今後羆嵐を読む予定でネタバレが苦手な方はご注意ください。
でもまあ史実なので、結末をご存知の方は多かろう。

これはコロナ禍にも通じる「人間の愚かさを描いた」ノンフィクションなのではないか

そもそものはじまりは、水害が繰り返し襲いかかる故郷を去った人々が、安住の地を求めて北海道の開拓地へと向かったこと。
彼らが最初にたどり着いた開拓地での生活は、たくさんの害虫に田畑を荒らされてしまいうまくいかず、たまりかねた彼らは、北海道内で次なる開拓地を求め、新たな土地が与えられました。

ようやく害虫に邪魔をされず、豊かな水源にも恵まれた場所で耕作を行う、穏やかな生活を始めるのですが……
小さな集落を形成した人々の、ささやかな営みを突如崩したのがヒグマでした。

それまで彼らは、北海道のヒグマの恐ろしさを知らず、本州の知識で、クマを「どことなく愛らしい動物」だと認識していました。
彼らは自分たちより先に北海道に移り住み始めた人々から、ヒグマが雑食で、草木や農作物以外に、「動物の肉を食べる」ことなど、「本州のクマとは全く異なった野生動物」であることを知らされてはいましたが、それまで実際にヒグマに遭遇したことがなかったため、ヒグマに対する「現実味のある恐怖感」は抱いていませんでした。


この事件を引き起こしたヒグマは、身体が大きくなり過ぎてしまったがために、冬眠で自らの身体を春まで休められるに足る、充分なサイズの穴を見つけられず、冬眠し損なってしまった、「穴もたず」と呼ばれる状態のヒグマでした。
冬眠できなかったヒグマは、お腹を空かせて開拓地に足を踏み入れます。
このとき、大半の男性は、冬支度や出稼ぎなどのために不在でした。ヒグマは女性と子どもしかいなかった家を襲い、子どもの命を奪い、女性に食らいつき、その亡骸を連れ去ったのです……。

わたしはこのあたりの描写で「鬼滅の刃」のアニメ1話に出てくる血に染まった家屋を思い出しました。鬼滅の刃は大正時代のストーリーですが、三毛別羆事件も大正時代の事件です。


この時、開拓地の男性たちは、松明の明かり、つまり炎や、金属を打ち鳴らす音でヒグマを避けられると信じて団結し、銃や刃物など、思い思いの武器を持ち寄ってヒグマと戦おうとしました。
ところが、ヒグマは炎や音を一切恐れません。息をひそめて家屋に寄り集まり、薪を焚べ、炎を燃やしながら、なんとか夜を明かそうとしていた女性や子ども・老人たちをも次々と襲いました。まるで、炎を「人がいるという目印」だとでも思っているかのような動きでした。

こうして、たった数日の間に、子どもを含む男女6名と、女性の胎内にいた胎児1名の尊い命が奪われました。


このとき住民たちは、銃と人員こそがヒグマを倒すための重要な武器だと位置付け、付近の村の住民や、警察である分署長に助けを求めます。
でも、この対応があまりよくなかった……!

馬に乗り颯爽とやって来た分署長は、「遺体の検死」という、今回ヒグマを討伐するにあたって最優先事項ではない作業を、「上司からの指示だから」と無理やり優先しようとし、住民たちを危険に晒します。

ヒグマは賢く、現場に人が大挙して押しかけても、それを簡単に察知し逃げるだけ。雪深い北海道の冬の山林は、人間にとっては見通しも足場もめっぽう悪く、いわばヒグマの独壇場でした。
また、一部の所持者がその存在を誇っていた銃は、漫然と所持されていたのみで、整備が行き届いておらず、そのほとんどが、いざというときに全く使い物になりませんでした。


そもそも、よその村から集まった人々には、命をかけてまでこの開拓地を守らねばならない義理も、開拓地の人々に対する人情もありません。
ヒグマの被害を実際に見て、戦意を失いかけるほどに恐れている開拓地の住民を笑ったり、まるで「楽しいクマ狩り」にでも出かけるかのような、危機感に欠け、資源を浪費するだけの酒盛りを繰り広げたり……
そんな様子を見た開拓地の人々は、他地域の人々に不信感を募らせます。知識も技術も、満足な道具もない、急ごしらえの「ヒグマ討伐部隊」の士気は、どんどん下がっていきました。


なにせ強大なヒグマを倒すには、それ相応の専門家の知識や、経験に裏打ちされた技術が必要なのですが、彼らは顔見知りの凄腕ヒグマ猟師「銀四郎」の助けを借りるのを、ものすごくめちゃくちゃためらいます。

銀四郎は、ヒグマ猟に関しては凄腕ですが、家族に恵まれず、その寂しさからか、酒の勢いで誰彼構わず喧嘩をふっかけていました。
ヒグマ相手に日の出から日没まで山を駆け巡り、単発の銃1丁で渡り歩く体力を持つ彼は、人に対してもめっぽう強く、何度も警察のお世話になっている、いわば「手の付けられない札付きのワル」でした。そんなワルに力を借りるのでは、警察のメンツは丸潰れです。

さらに、彼の手を借りてしまったら、開拓地の人々は、この先傍若無人な彼の言いなりにならざるを得ないのではないかと、ヒグマ討伐後のことを恐れるあまり、皆が銀四郎の力を借りるのをギリギリまで先延ばしにしていました。


ヒグマに対してほとんど無力であった彼らはなすすべなく、結果として銀四郎の力を借ります。
しかし、それでも分署長は、ヒグマの生態に対する知識など全くないにも関わらず、「自ら陣頭指揮を取り、自らが考えた方法を用いてヒグマに立ち向かうこと」に固執します。
せっかく山を越えて来てくれた、専門家である銀四郎の意見を一切聞き入れようとせず、「皆で一斉に銃を乱射すれば、ヒグマは倒せる」と盲信して突き進んでしまうのです。


このあたり、なんだか、すっごくコロナ禍っぽくないですか?
専門家に意見を求めるフリをして、自分たちに都合の良い部分だけを切り出したり、そうでない部分は無視したり……
「人間って愚かだな、いつの世も……」と思わざるを得ない状況ですよね……。


結果として銀四郎は、自らの知識と経験で無事にヒグマを倒すのですが、この後の開拓地の人々……特に区長の反応がよろしくなかった。

ヒグマは毛皮や肉以外にも、「胆(たん)」と呼ばれる胆嚢の部分に高い価値があり、この「胆」は、直接ヒグマを倒した猟師がもらうしきたりでした。
区長はそれを知らなかったのか、銀四郎よりも自分たちの立場が上だと無意識下で思っていたのか、いちばんの功労者であるはずの銀四郎に向かって、お礼を言うつもりで、「胆は持っていってほしい」と、まるで「自分たちのものを分けてやる」かのような、上から目線な態度をとってしまいます。

この言葉を聞いた銀四郎、本当なら彼は大人しくこの場を立ち去るつもりでしたが、激昂!
胆を持ち帰ることはもちろん、開拓地の住民に対して、今回の功績に対して多額の金銭を要求するのです……。

専門家をなめるな

結局、開拓地の住民は銀四郎の功績を認め、皆でお金を出し合って銀四郎に渡しました。そのお金を受け取って、銀四郎は自らの村に戻ります。
わたしはこのときの銀四郎の思いを想像してしまいました。

家族もなく、酒を飲んで荒れていた銀四郎は地域の皆から避けられて暮らしていて、今回こそ自らの知識と経験が皆の役に立ったことをしみじみと喜びながら、かつ犠牲者やヒグマの命を悼みながら、大人しく去るつもりだったのではないだろうかと。
それなのに、おべっかを言って持ち上げたかと思えば、見下したかのような発言をしたり、日和見的な視点で自分に接する開拓地の住民たちに辟易したのだろうなと。

わたしも群れるのは苦手です。
ヒグマを倒したときの銀四郎は、まるで区長とバディを組んだように感じていましたが、区長、お前って奴は。

そして分署長。
自分のプライドとか、メンツとか。本当に非常時に優先すべきものなのでしょうか。住民の命より、専門家の意見より大切なメンツってなんなんでしょうか。
このあたりがコロナ禍の現状に重なるなと感じてしまいます。

推しがこの作品に出演するとしたら……

うーん。「分署長」か「区長」かな〜。少なくとも銀四郎ではないのは確かです。
推しの現代劇ではない作品もまた見てみたいなと最近思うので、ぜひやってほしい。

*1:ついつい三毛猫を想像してしまった。今はもうない地名だそうです。

*2:わたし・家族含め、当時は全員不在でした。