晴々 haruharu

今年の目標は「できる限り、健康になる」

【4月5日 追記あり】イクニと東京トガリの件、あるいはわたし自身の偏見による反省について

追記

こちらのブログは 「意図せず性的マイノリティのみなさんを傷付けてしまう言動への注意喚起」 の目的で公開しているものであり、「幾原氏への誹謗中傷」を目的として、こちらのブログを拡散することはおやめください。

4月2日夜、幾原氏ご本人による、今回の経緯の説明や謝罪のツイートがありました。

ツイートには、今回の出来事に性的マイノリティ当事者のみなさんを揶揄する意図はなかったことや、件の「改名予告文」が、プロデュースする楽曲の歌詞の一部であったことなどが記されています。
わたしはイクニ作品のファンで、今回の件に関しては、ファンであるからこそ見過ごすことができずに、このブログを書きました。

揶揄の意図がなかったということは、今回の出来事は完全に無意識下で行われていたということで、それはそれで問題なのでは……とも思っていますが、当初わたしがブログに書いた、氏の行動が「完全なるクィア・ベイティングだった」という部分は、「クィア・ベイティングと解釈されてしまう可能性が多分にあったに訂正致します。

はじめに

わたしはシスヘテロで「アライ」です。
(体と心の性別が一致した異性愛者で、「性的マイノリティの方を支援する立場」という意味です)

当事者の知人は複数いますが、わたし自身は性的マイノリティの当事者ではありませんし、「あなたの身の回りに当事者はいますか?」と尋ねられて、「この人がそうだ」とどなたかのお顔がしっかり頭に浮かぶ方は、そう多くないのが現実だと思います。

しかしながら、実際には、性的マイノリティのみなさんは、みずからの心の大切な部分を隠しながら、守りながら生きているだけで、あなたのすぐそばにいるのです。
当事者に深く関わっていない人にとっては、当事者が経てきた出来事を全く知らずに、共に過ごしている可能性も大いにあります。


実際、トランスジェンダーの当事者に出会った際、当初わたしは彼を単なる「背が低い男性」だとしか思いませんでしたし、レズビアンの当事者からカムアウトを受けた際も、「そんな風には見えなかった」とかなり失礼なことを思ってしまいました。

それでも、わたしは彼らと関わっていくうちに、彼らを取り巻く世界があまりにも「優しくない」ことを知り、わたし自身の過去の後悔を思い出す機会があって、今はマイノリティのみなさんの「より良い仲間」になれたらいいなと思う、学びの途中です。



まずは、先日からTwitter上で話題になっている、ふたつのお話からはじめます。

「『カムアウトの文脈』を用いた宣伝」


2022年3月30日、アニメーション監督である幾原邦彦氏(通称イクニ)が「改名」を予告するツイートをTwitter上に行いました。

その「改名予告」の文章には、性的マイノリティの方がみずからのアイデンティティを公表する、いわゆる「カミングアウト・カムアウト」をされる際に用いられる文章が多分に含まれており、おそらく、このときの幾原氏のツイートを真剣に受け止めた当事者は多かったのだと思います。
なぜなら、翌31日に、彼の改名後の名前が「ボンソワール幾原」であると発表された際に、当事者間で相当な騒ぎになったから……。


そもそも、30日に行われた改名予告ツイートのなかにあった、

「色々考えましたが自分に正直に生きることにしました」
「この発表によって、色々なものを失うことになると思いますが覚悟の上です」
「迷惑をかけてしまうことになり、そこは葛藤したのですが、偽りなく生きることを選びます」

などの文章は、必ずしも性的マイノリティの方だけが使う文章とは言えず、これらの文章を「カムアウト専用の文章」とされることは文化の盗用ではないか?という意見も目にしました。
しかしながら、これら全てがひとつの文脈として並ぶと、単に「筆名を変更する」以上の含みを感じてしまうのは仕方のないことだと思います。

また、日付がエイプリルフールの直前だったこともあり、「日にちを間違えた冗談なのか?それとも本気なのか?」と、幾原氏の発言の真意がわからず、困惑するファンが、当事者・非当事者の別なく、多数現れました。

性的指向の曖昧さ」をほのめかすことで世間の注目を集めようとする行為が、「クィア・ベイティング(Queerbaiting)」と呼ばれて問題視されています。
結局のところ、今回の問題が、「幾原氏が音楽ユニットを結成し、楽曲をプロデュースする」ことに対する宣伝であった……という点で、氏の行いはクィア・ベイティングと解釈されてしまう可能性が多分にあったと言えます。

「エイプリルフールで『女性化』」

また、2022年4月1日の「エイプリルフール」当日には、Twitter上で活動するぬいぐるみのキャラクター「東京トガリ」が、「東京トガ子」に名前を変更し、プロフィールも書き換えた上で、「スカートを履き、頭にリボンをつけた姿の写真」を載せて行われたツイートが、Twitter上で大きな物議をかもしました。


写真が添付されていたツイートの文章自体も、SDGsジェンダー問題に対する社会的なムーブメント自体を揶揄しているとも取れる、あまりにもひどい内容でした。

また、トガリがエイプリルフールの嘘として用いた、「女性といえば、みんなこんな感じ」というステレオタイプ的な描写は、体と心の性別が一致しない「トランスジェンダー」当事者のみなさんに対する差別だけではなく、体と心の性別が同一である、いわゆる「シスジェンダー」の女性に対しても差別的だと言う意見もありました。

何が問題なのか?

大多数のマジョリティの、非当事者である人々にとって、「これらの言動の何が問題なのかわからない」という意見もあるのではと思います。


性的マイノリティのみなさんにとっての「カムアウト」は、それを行ったことで、カムアウト前よりも大きな不利益を被ったり、カムアウト前よりもさらにつらい差別をされる可能性があるため、かなりデリケートな問題です。


わたし自身、学生時代に、同級生から、昼休みに唐突に「性的マイノリティであること」をカムアウトされたことがありました。
おそらく、当時のわたしが持病があって休みがちであったために、クラスメイトから若干浮いた存在であったことが、同級生にとって本当の自分を告白しやすい相手だと思ってもらえたのかなと思います。

しかしながら、わたしは「同級生を傷付けたくない」と強く思うあまりに、同級生にどんな言葉をかけたら良いのか全くわからなくなってしまい、結果として、「同級生と話さなければ、不用意な発言でご本人を傷付けずに済む」と最悪な選択をして、同級生を遠ざけてしまった上、わたし自身の持病で大きく体調を崩し、ほとんど学校に通えなくなりました。

みずからの闘病で精一杯になってしまい、ほとんど登校不能状態に陥ったわたしは、「同級生の告白を『たまたま耳にしてしまった』別の同級生」たちが、同級生に対してひどいいじめを行っていたことを、ずいぶん後になって知りました。

せっかく同級生ご本人に「話してもいい相手」だと思ってもらえたにも関わらず、同級生が傷付けられていた状況をほとんど知らずに過ごし、結果として、支えになれなかったことを、今も悔いています。

しかしながら、当時のわたしは持病が回復せず、1年の休学ののちに当時の学校から転校したため、当時の学校の卒業生になっておらず、「同窓会」に参加できないことや、当時から、同級生のお宅がどこにあるのかを知らなかったこと、ご本人との唯一の連絡手段であった携帯電話番号がいつのまにか不通になり、ご本人と直接連絡が取れなくなってしまったことなどが重なり、現在、同級生に会ってお詫びをすることや、直接的に関わることはできません。
わたし自身の罪滅ぼしや自己満足で同級生を探し出し、一方的に謝罪することが「良いこと」とは思えず、ただただどこかで幸せでいてほしいと願っているのみの状態です。


「カムアウトすると、こんな差別に遭ってしまうこともあるんだ……だからみんな、『本当の自分を隠して生きていくしかない』と絶望してしまうんだ……」と実際に感じたからこそ、わたしはカムアウトの文脈が、当事者のみなさんにとってどれほど重大なものであるかを知りました。



今回の幾原氏のツイートは、大きな葛藤の末に、みずからの心を開示することにした当事者がひんぱんに用いる、重大な、かつとても大切な文脈を、ほぼそのままの形で「自作の告知」に用いてしまったのです。

また、東京トガリのツイートは、「どのように服を装うかを悩みながら生きているトランスジェンダーの方」に対しても、「いわゆる『女の子らしい』服装や言動が苦手なシスジェンダーの女性」に対しても、あまりにも失礼です。



人は「みずからと違う属性」にいる人に対して、深く意図せずに、とても冷酷な行動を取ってしまうことがあります。
もしかするとわたしも、「配慮をしているつもり」になっているだけで、ものすごく失礼なことを、日々言っているかもしれません。
それでも、黙らないことにしました。

これを黙って見過ごして、そのままにすることは、第二・第三の幾原氏や東京トガリを産みかねないからです。



誰かを踏みつけ、心を踏みにじり、その上で行う発言で誰かが笑ってくれたとして、あなたはその行いを心から誇れますか?


プロですら、容姿や年齢やジェンダーを揶揄するネタは批判される時代です。
「面白いことを言おう」としなくていいです。
そんなスキル、そもそも我々にはありません。

「時代」という言い方をすると「昔はよかったのに」と言われるかもしれませんが、昔は批判の声が今より届きづらかった・同じ意志を持つ同士が集って意見を交わし合う機会が少なかったというだけであって、今行われているような批判も少なからず存在していたはずです。



今回の出来事を、「何が問題なの?なぜいけないの?」と思った人にこそ、届いてほしいなと思い書きました。

いずれ細かく書き直すかもしれません。
乱文失礼致しました。